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代表者の歴史と想い。

やまで かずのり

株式会社 MountainGo 代表取締役 山出 和則 

1980年3月22日 生

三重県伊勢市在住

とるしえ三発・風船芸忍・玉川佐八

年表

以下、恥をさらします。こうやって学んできました、という履歴。

イライラしたらスミマセン。お気を付けください💧

1980年3月 

 三重県久居市(現・津市)に生を受ける。 

1983年 日本で一桁の前例しかない宝くじより当選確率低い病気に当選。  

 3歳 頸部リンパに嚢腫ができ、三重大にて大手術。首は神経も多く、非常に難しい手術のため神経が損傷すると顔面に歪みが生じたり、再発や残存の危険性がある、と宣告されるも、名医の外科手術により無事成功。

 ただ、残念ながら将来斎藤工ばりのイケメンになるはずだった顔はご覧の通りのお笑い系に・・・。うんうんうんって、いや、そこ、そんなことないで!ってお世辞でも言うところ!

1986~1998年 学生時代

小学5年 いじめを苦に、死にたがっていたそうな。校庭で羽交い絞めにされ、十数人の入れ替わりの殴る蹴るを受けるという格ゲーの必殺コンボ並みの攻撃にも耐え、グランドに倒れたこともある。あの時見た沈む夕日の美しさは忘れない。ある日は、顔にうわぐつの跡をつけて帰ったとか。あたたかな親の愛によりあらゆる手を尽くしてもらったおかげで、無事生還。そのあとマット事件とかあったなぁ。

中学校 またもやいじめ。顔がムカつくとか、性格がムカつくとか言われたけど、まぁ、なんか自分にもムカつかせる原因あったんでしょう。だとしても、いじめ、ダメ、絶対!

小学校で学んだ山出少年、今回は早期に親に相談。そしたらマザコンと呼ばれるように。冬彦さーん。無事スクスク成長。

                         

高校 高校でもいじめが起きる。ただ、今回は標的としては3番手ぐらいに格下げ。しかし、工業の電気科だった為、「電線の 鞭で打たれて ミミズ腫れ」日本晴れみたいに言うな!高校のいじめは、タバコの火、階段からの蹴り落とし、そこに机が降ってくる、などなど結構激しかった。が、もうマザコンと言わせない、という一心で、生徒指導室に逃げ込んだ。全部話した。自分以外の被害のことも。ボクサーと呼ばれる厳つい熱血教師と知性に溢れる数学教師の華麗なる対応により、当日中に全校集会が開かれる。結果、数名が退学となる。5名の同級生とその保護者が家まで来て退学を取り消すよう迫ってきた。しかし、自分にそんな力はない。うち2人は1学年下で再入学してきたため、廊下ですれ違うたびに生きた心地がせず。マザコンとは言われなかったが『ちくり』と言われた15の夜。でもバイクは盗まない。

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1999年(19歳) 

 卒業後、電気工事業で働きながら、演劇の楽しさに出会う。劇団所属。演じることが楽しかった。いっこく堂さんもいじめられっこだったそう。心の友だった人形と話すうち、腹話術と出会い、今に至ったそう。自分も、人を楽しませる人になりたい、と奮闘。

2000年

 演劇仲間と入籍。娘、誕生。いろいろあって別居。劇団を作るが、あえなく粉砕。

その頃、故・鈴木のおっさんの紹介で、かつらさんぱつ師匠と出会う。弟子に。これがのちに自分の人生に大きな影響をもたらす。

2003年 ~ 2005年

 バツイチになる。娘とは生き別れることに。大人の身勝手で、子どもを振り回す自分に、自己嫌悪の日々。のたうち回る日々。病む。

隠れてしまったカフェ

 人生の師・山崎拓巳氏と出会う。いつか娘に会えた時、胸を張って会える自分になっておきたいと思う。そうやって言い訳してただけだろう。でも今となっては必要な過程だったと思う。そこからビジネスに一生懸命取り組み、壁にぶつかり七転八倒。学び、向上する必要性を思い知る日々。試行錯誤する人生に。

2006年 ~ 2007年 

 久居にカフェを開業。隠れ家的カフェを目指すぞ!と、ホンマに隠れてしまい、あっという間に閉業。ラーメン店を始めるも、あっという間に挫折。一生懸命、でも安易。だから挫折。そんな繰り返し。お恥ずかしながら、失敗だらけの人生。

2009年 人生を左右する大事件(自分にとっては)がおきる。

 ちょっといろいろありまして・・・。失踪。あまりにお恥ずかしい話なので、具体的にはまたいつか。とにかく、生きていたくなかった。喪失感、絶望感、孤独感、劣等感、恥ずかしさ、そんな感情が入り乱れ、心底、消えるべきだと思った。存在してはいけないと思った。周りを巻き込みのたうち回った。とにかくこの世界から逃げ出したかった。ごめんね、みんな。迷惑かけました。みんなの心配が逆に苦しかった。だから、もう大丈夫、なふりをしていなくなった。携帯もぶっ壊した。けどバレてた。バレてて捕まったけど、そのまま強引に三重を出た。知ってる人がいないところで、人生を終わらせようと思った。なんとなく東尋坊とか行ったらいいと短絡的に思って、日本海(福井)へ向かう。が、さすが自殺の名所。どりゃーおじさんのNPOが、見回りしてるのね。そんなこんなで機会を失い、だんだん怖くなる。ただの死に損ないはフラフラと東へ。福井→石川→富山へと導かれて移動していく。

 フリーペーパーでたまたま見かけた富山の曼陀羅遊園と言うところへたどり着く。天界と地界を体験、人生の修行について深く考える機会に。壁に書かれた「非苦非楽」という言葉を見つめ、そんな境地に行けたらなぁ、とこれまでを振り返る。瞑想。いよいよ園を出るところで、係の人から結びの言葉。「昨日までの人生はここで終わり。出口に続く道は母親の産道を表しています。いま、母親の子宮からでて、扉を出たところから新しい人生が始まります。」と宣告される。ついにここで死に、新しい人生、おまけの人生が始まった。

『おまけの人生』

 過去を前世とし、立山で新たに始まった今世。どうせ終わらせるつもりで出発したこの道中。無理になるまで進んでみることにする。ただの自己満で、言い訳がましいだけかもしれん。が、とりあえず、なんか気持ちが軽くなった気がした。放浪がはじまる。日本海側を北上し北海道へ。雪が降ってきて慌てて本州へ避難。青森から盛岡、峠を越えて岩手沿岸、気仙沼、松島と南下。山の駅のおばあちゃん、気仙沼の料理店のご夫婦、たくさんの名前も知らないご縁、出会い、優しさ、琴線に触れる言葉を戴きながら、死にぞこないは放浪を続けた。静岡辺りで資金が尽き、岐阜の雪山で働くことに。スキー場で働く。サンダーという男と出会う。10も年下なのに、一目置く存在になる。

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念のため、これは私ではない。

2010年     

 高野山に3か月籠る。高野山一乗院。頭を丸めて宿坊に滞在。弘法大師の教え、煩悩のある人間として生きたまま仏となることの意味。受け入れるということの意味、そして広施功徳宝(持っているものをすべて世の為人の為に施すことこそ最高の宝であるという意)の意味を学ぶ。山を下り名古屋へ。住所不定無職の30歳。いったいお前はどこへ行くのだ。

2010年7月  

 ある日、目が覚めると、福岡の日本銀行前にいた。キャナルシティの前の公園や、大濠公園のベンチで眠る日々。ホームレスと寝る場所を取り合うことも。商店街で雑誌を売ってるホームレス、ギターを弾き語り、炊き出し支援のご協力を求めるホームレス。福岡のホームレスのたくましさを目の当たりにする。それを見つめるホームレス20日目の激弱人間な自分。ふと思う。「名古屋で高架下や駅から追いやられているホームレスの力になりたい」。自分の使命を見つけた!・・・いやいや、今、あなたもホームレスでしょうが…。

 そんな時、大濠公園前に、刀剣研磨処という店を発見。周辺の店舗の明かりが消える中、その店には明かりが灯り、刀に打ち粉を付ける、藤枝梅安のような男が異様な存在感で座っていた。刀研師 杉氏であった。吸い込まれるように店に入る。初めて訪れた私のために、数時間話してくれた。

「刀は持つ人を選ぶ。持つに相応しくないない人に渡っても、刀は不思議と去っていく。自分の身に起きることも全て自分に相応しいから起きている。」

 あくる日、九州大仏に祈る。「死にぞこないのこの命、そのご意志のままに自由にお使い下さい」

 そこからは不思議な出来事の数々。(詳細はまたの機会に。)そして数日後、導かれるように、雲仙へ。雲仙は西の高野山と呼ばれる山だった。先日まで高野山にいた。そして雲仙九州ホテルで働かせて戴くことに。素晴らしい支配人と女将の元で、おもてなしすることの喜び、素敵な人たちと働くことの喜びを感じる。仕事以外の時間は、寮に籠って名古屋のホームレスサポートのプロジェクトを企画し、作りこんでいく。

 長崎というところは、8月7日、サイレンが鳴り、仕事の手を止め黙とうする。天草では、キリシタンたちの壮絶な死生を感じる場所がいくつもある。同僚が交通事故で人を死なせてしまう事件が起きる。福岡に続き長崎でも、命の使い方を考えさせられる経験となる。

 秋、三重に2年ぶりに帰還。プロジェクトの実現を目指し、知識と資金を集めるべく伊勢志摩へ。サミットが開かれるホテルや、各国の著名人が宿泊するようなホテルなどで、おもてなしと、飲食店の仕組みを学ぶ。

2011年3月11日 東日本大震災。

 あの大地震が発生。ボランティアバスで岩手県下閉伊郡山田町へ。当初は、ボラでがれきの撤去、写真の修復をはじめ、保育園などで余暇イベントを開催。複数回のボラバスに参加した後、岩手に留まって活動継続。「ホームレス支援をすると息巻いた自分」と「災害地に来ている自分」に矛盾も感じながらも活動を続ける。そんな中、災害支援に長期出来ていたある人から言われる。「日本では、ホームレスと被災者、分けて呼ぶけど、アメリカでは、災害で被災した人もホームレスと呼ぶ。だから、君のしていることは矛盾していない」。よく聞いてみると、な、なんと「福岡のホームレス支援団体」を主宰している方であった・・・。

 その後、後にワイドショーやニュースを騒がせることになる、某NPO団体(北海道)に加入。災害特殊小隊という数人の部隊に配属される。支援物資の管理、海でのご遺体捜索、陸海訓練の日々。東日本大震災最大規模のがれき火災が発生。鎮火までの数日間、消火活動に携わる。

 しかし、それからしばらくして、言うことを聞かない私は、追放されることとなる。なんとか山田で活動を続けようと模索するも、保育園の園長先生に脱出したほうが良い、と盛岡に送還される。そのNPOの闇に気付いていたようだ。なお、救助救命を訓練して下さった先生は、自宅で散弾銃で口を打ち抜き(打ち抜かれ?)亡くなったそう。あの時、脱出していなければ、今頃・・・。三重に戻ってしばらくして、そのNPOは、テレビでも話題となり、部隊長、副隊長等数名が横領などの罪で実刑となった・・・。

2012年 ~ 2017年

 志半ばで岩手を後にした後ろめたさや心残り、また被災地で雇用を作ることの重要性を感じたため、雇用を作れるような技術を身に着けようと、整体を学び、リラクゼーション新店舗立上げや運営を学ぶ。

 並行して、度々各地で起こる台風や洪水など、各地の被害地へ出向き、災害地での支援をライフワークとする。

熊本の益城の被災地で子どもたちに風船芸
電気工事の技術を活用。
ボラキャンプで数々の電気工事を。
高橋歩氏との出会い

 災害支援は想いだけでは大したことはできない。知識や技術が重要だ。十数名で一生懸命土を出している横で、ユンボであっという間に大量の土をどかしている。従業員を交代で被災地に派遣している会社もあった。もっと言えばある程度は資金も重要だ。それを実感した、というより突き付けられた感じがした。読んでいた本の著者が、被災地で活動している背中も見た。そして熊本の人たちは、強かった。前を向いていた。『以前のように』ではなく、『次を見つめて』進んでいるように感じた。岩手と同様、支援金の不正受給、詐欺行為はいくつもあった。暴力団の影も見え隠れした。お金が動くところ、不義も寄ってくる。拝金主義者が目をつける。悪びれもせず。まるでいいことをしているかのように。こういう裏側も改めて思い知らされることとなった、そんな熊本地震での活動だった。

2016年 観光PRに携わる。

 三重県の事業として1年間観光誘客に携わる。全国のイオンや百貨店を回り、風船芸をしたり、時にはゆるキャラに入っ・・・い、いえ、ゆるキャラと仲良くさせてもらったりして、三重の魅力を発信していく活動。”風船芸忍”、もこの時に生まれた。

観光誘客で、全国の百貨店などで風船芸
おじいちゃんおばあちゃん達に落語

というわけで・・・。☆

 老人会、敬老会などで、高齢者の皆さんに落語を見て戴いたり、地域の祭りで風船芸を行ったり、私にとって【芸】とは、私の人生を豊かにするそのものであり、私らしさでもあります。自分が肯定できる自分、でもあります。

 落語や風船芸だけでなく、電気工事や整体、おもてなしなどの技術も【芸】。被災地のキャンプに、コンセントターミナルを作って贈呈したり、ワンコイン整体で人を癒し喜んで貰ったり、そのお金を集めて東南アジアに井戸を掘って貰ったり。

 私はそんな【芸】のおかげで、顔や名前を覚えて戴き、【芸】が、人との繋がりを作ってくれました。そして【芸】が自分を好きにさせてくれました。もちろん、誰にも負けない一流のすごい芸を持っているわけではありません。私の芸は、一流の人からすれば、芸とは呼べないのかもしれません。もっとすごい技術・腕を持つ人は山ほどいます。

 でも、すごい芸でなくても【芸】というものは人に喜んで戴けて、そうすると自分自身も嬉しい。喜びになります。その人が大好きなもの、その人が少しでも誰かに喜んでもらえるもの、楽しんでもらえるもの。楽器の演奏や、料理、家庭菜園、日曜大工、折り紙、切り絵などなど、小さなことかもしれませんが、それは立派な【芸】だと思います。そんな【芸】は、その人らしさでもあり、その人の強みとも言えます。特技。趣味。技。とりあえず仕事にできる程でなくてもいい、少しでも喜んでもらえることがある。そして、だからこそ、もっともっと喜んでもらえるものになるよう、磨き続け、上達していきたいと思うのだと思います。その【芸】が感謝され、お役に立つ。そのお役立ちや感謝を、言葉や気持ちで受け取るのか、お金で受け取れるようになるのか、それは、どちらでもよいと思います。結果は、後からついてくる。私は、落語だけでなく、そういう生き方を師匠から学びましたし、師匠はそれを体現していると感じています。

 長くなってしまいましたが、弊社をご利用戴く方も、一緒に働いて戴くあなたも、通りすがりのあなたも、自分の【芸】つまり、「色」を大事にして戴き、自分自身を生きて戴けたら嬉しいです。そんなふうに生き生きした姿を、子どもたちが見て、「僕も、私もそうなりたい!」と思ってくれたら…。子どもたちが自分自身のここが好き!と思えることが増えたら…。きっと、もっと素敵な世界がやってくるはず。そう信じています。

 ここまで私の過去と、個人の自己満足な考えに最後までお付き合い戴き、ありがとうございます。

 そして、これまでの人生に関わって下さったすべてのご縁、今関わって下さっている皆さん、これから出会うご縁に、改めて感謝を申し上げます。今後とも、どうぞ宜しくお願い致します。

             やまでかずのり 感謝